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今年度の講習会

12月閉じこもりー『今を生きる』とはどういうことだろう

(1) われわれは過去・現在・未来の時間軸のなかで生きていると思っています。しかし、「生きる」ということは「生命が活動している」ということです。生命が活動している状態からいえば、いつも「今」であり、過去や未来はありません。過去や未来は考えるなかで、「ある」と思っているのです。
この世界は物質の世界であり、思っているだけで満たされる世界ではありません。行動し、体験することがとても大事な世界です。考えている状態は生命活動のあらわれのひとつと思われていますが、行動が生命活動であり、直観的なひらめきをともなわない思考は、生命活動のそのものとはいえないでしょう。ただ、生命活動を活発にする思考は生活上、必要な積極的な思考であり、生命活動を妨害する思考は否定的な思考であるということになります。

(2) われわれは肉体をもち、肉体生命を生きています。ですから、肉体の状態が健康か病気によって生命活動が活発になったり、妨害されたりします。もっとも、病気にはストレスを溜めるような生き方の影響が大きいですから、逆に、病気であっても、心境的に積極的な生き方に変えていけるなら、生命活動は活発になりますし、免疫力も高まります。
われわれは原因があるから結果があるという、原因・結果の法則にのっとって生きています。ですから、「今」出会う状況は過去の原因があらわれた結果なのです。病気もストレスを溜めるような生き方の結果なのです。マイナスの原因の結果としてマイナスがあらわれ、プラスの原因の結果としてプラスがあらわれます。

結果があらわれることによって原因は消えます。結果である状況にどう対応していくかが「今」の問題になります。しかも、その対応が新しく原因をつくることになります。
マイナスの状態に対応するときに、困難さを強く感じるほど、否定的に考え、新しくマイナスの原因をつくり、実際に困難な状況という結果を将来にもたらすことになります。これが因果の悪循環です。
したがって、「今」はプラスの原因をつくるチャンスと見ることが必要です。まず、「すばらしいことがやってくる」「ありがとうございます」などの積極的な言葉を自分の腹のなかからわき出すような感じで唱えることを潜在意識にしみ込んでいる否定(ネガチブ)にぶっつけます。そこからポジチブな行動へとつなげます。そのことが困難な状況にも変化をもたらします。
「今」は、何があろうと、生き生きと生きるチャンスなのです。それを実現できるのは「今」しかありません。「将来、そうなればいい」と思うだけでは、何の効果もありません。 生命の目的は、ひたすらに、よりよく生きるとういことです。

11月閉じこもりー親子関係はカルマになる

(1)  われわれはこの世界に生まれてきて、まず、密接な関係をもつ人はその両親です。死別または生別により両親がいないときは、その子どもを養ってくれる人が両親の代わりになります。
赤ちゃんは親なしで生きることができず、親に絶対依存することによって成長します。赤ちゃんにとって親は全能の存在者であり、両親の子育てからきわめて大きな影響を受けます。子どもにとって両親は人間の代表であり、親子関係は子どもの人間関係の基盤になります。
 子どもが両親に愛を実感できるなら、親子関係は信頼関係になり、ほかの人間関係もうまくいきやすくなります。
 これに対して、子どもが両親に愛を実感できていないなら、親子関係は、表面的にはつながっているように見えても、子どもにとって不信関係になります。それでも、子どもは両親の、無条件の愛を求めつづけていますから、両親の期待に合わせてよい子を演じようとします。もっとも、子どもによって上手、下手があります。このことが、ほかの人間関係でも、相手の期待に頑張って合わそうとし、人間関係がしんどくなることがあります。

(2)  閉じこもりの人は、「人とどう付き合ったらよいか分からない」と「どう生きたらよいか分からない」と言う人が多く、人間関係の問題と生き方の問題で挫折します。この問題はつながり合った問題であり、二つで一つの問題であると見ることができます。この問題が深刻になるほど、しんどさが強まり、閉じこもり状態になっていきます。
人間関係がうまくいっている人は、自己肯定感をもち、肯定的な生き方になっています。これに対して、人間関係に気をつかい、緊張が強まり、しんどくなっている人は自己否定観にしばられており、否定的な生き方になり、否定的に考えつづけます。
つまりは、両親を信頼できている子どもは、その両親の影響によって肯定的な性格を形成し、肯定的な生き方がカルマ化し、プラスを引き寄せ、充実した生活になりやすいのです。これに対して、両親に不信をもつ子どもは、否定的な性格を形成し、否定的な生き方がカルマ化して、マイナスを引き寄せ、ストレスの多い生活になりやすいのです。
なお、カルマの法則とは、原因・結果の法則であり、思いがプラスまたはマイナスの種子をまくと、その結果がプラスまたはマイナスとしてあらわれて、自分にかえってくるという法則です。

(3)  さらに、親子関係がカルマ化して、代々伝わっていくという問題があります。これは家のカルマという問題です。両親の愛を実感してきた子どもは自然に両親を愛するようになり、やがて成人し、自分が親になったときに、その子どもに無条件の愛を注ぐことができます。その子どもも同様になります。
これに対して、子どもが両親の愛を実感できず、両親に不信をもっているなら、自分が親になったとき、親のようになりたくないと思いながら、「どう無条件の愛を子どもに注ぐか」が分からず、親と同じように、自分の子どもに無条件の愛を伝えることにできない親になることがとても多いのです。
つまり、自分の親を反面教師にして、子どもが親になったときに、その子どもに無条件に愛を伝えられる親に変わる場合はとても少ないのです。
自分が親になったときに、家のマイナスのカルマがある場合、プラスのカルマに変えることがその親の責任になります。そのためには、親は否定的な生き方を肯定的な生き方に変えることがその実現に役立ちます。
自分に暖かくなることが子どもに暖かくなることにつながり、家のマイナスのカルマが解消することになります。

10月閉じこもりーこの世界になぜ、やって来たんだろ

(1)  閉じこもりの人は「どう生きるか」という、人生の根本問題に出会います。もっとも、この人生の根本問題に出会うのは閉じこもりの人に限られるわけではありません。人生の根本問題は、人間であるすべての人が出会っても当然の、人類の普遍的な問題あるということができます。
それにもかかわらず、その日、その日の生活に関心を奪われ、この問題に目を向けないまま、一生を過ごしてしまう人が多いのです。
人類の普遍的な問題に向き合って生きるのが第一義の生活であり、それがないのが第二義の生活です。第一義の生活は精神面の生活であり、第二義の生活は物質面・経済面の生活です。このどちらに片寄るのはアンバランスな、不健康な生活になります。人生ではこの両面がまじり合い、どちらも重要であり、この両面のバランスがとれることによって生命活動が活発になります。

(2)  われわれがこの世界に生まれてくることは非存在が存在することであり、われわれが死ぬことは存在が非存在になることでしょうか。般若心経は「色即是空、空即是色」と述べています。色は形であり、空は形のないことです。それでは、「空は何もないことか」というと、空はすべての色を生み出す空なのです。からっぽではなく、充満しています。空とは不存在ということではありません。
生と死は存在のあり方の変化であり、死は非存在になることとはいえません。
問題は、われわれは存在の記憶を失って生まれてくるということです。「われわれはどこから来て、どこへ往くのだろうか」。「なぜ、この世界に生まれ、何のために生きるのだろうか」。これも人類の普遍的な問題に含まれています。
「どこから来て、どこへ往くのか」は、「生まれる前はどこにいたのか。死んだらどこへ往くのか」ということになります。

(3)  われわれはこの世界にそれぞれテーマをもってやって来たと理解するようになりました。共通したテーマとしては、光の欠如である闇を体験し、闇を切り開く実践のなかで本来の光をあらわすようになり、もともと自分自身が光であることを思い出し、そのことによって根源的な大生命である光(大いなる存在、神などと呼ぶ)が進化します。
もともと自分自身が光であることを憶えているなら、新しい闇の体験はできないために、記憶を失って生まれてきます。この世界は闇の世界としてつくられていますから、実在の世界ではなく、現象の世界であり、変化する世界です、一見闇が栄える世界です。
個別的には、かなりくわしい人生計画を作って生まれ、しかも、そのことも出生のときは忘れてしまっています。親も選び、家族、職業、結婚、成功、失敗、貧乏、死に方なども定めているようです。闇の世界ですから、つらいこと、挫折、苦しみに出会うにが当たり前の世界です。
自分自身である魂も封印され、必要な意識活動として心をもつことになり、魂は宿っているものの、心はそのことを知らず、心意識活動の仮の焦点として自我意識、つまり、自分という概念をつくります。
困難な状況に出会うとき、心はそれを避けようとしますが、それでも乗り越えていこうとするなら、魂意識が活動し出します。そのことに気づくことを「目覚める」といいます。

(4)  われわれは光の世界からやって来て、やがて光の世界にもどって往くのでしょう。その間、何度も転生(生まれ変わり)を繰り返します。その体験を積み重ねることで魂のレベルはアップしていきます。
この世界では、いやなこと、つらいこと、苦しむことなどに出会うのが当然であり、心はそれを避けようとしても、避けつづけることはできません。そこがうちに宿る光をあらわすチャンスなのです。
自我が頑張ろうとするときは、心は協力しますが、否定的な状況に出会うときには、頑張るだけでは乗り越えられなくなり、心は否定でいっぱいになり、自分を否定のなかへ引きずり込もうとします。
この世界では否定的な状況に出会うことが当たり前ということを理解するとともに、そのときに「どう対応するか」がテーマとして問われているのです。
そのとき、自分のなかの光があらわれているつもりで「ありがとうございます」と唱え、態勢を前向きにし、否定的な状況を切り開いていく行動をします。そのことがこの世にやって来たテーマを果たすことにつながってきます。


9月閉じこもりー閉じこもりー心は自分の味方ではない

(1) われわれは心は自分の味方だと思い込んでいます。しかし、私が自分の個人生活やカウンセリングで体験してきたのは「心は自分の味方ではない」ということです。

ストレスが溜まるほど、われわれの心は否定でいっぱいになり、否定的なことを考え続けるようになり、否定的な感情があらわれてきます。思いどおりにならないことをつぎつぎ体験することによって心の否定的なエネルギーであるストレスがからだに溜まります。

深刻な挫折状態になると、心は「死んだららくになる」と言ってきて、自分を破壊しようとします。この声に耳を傾けた自殺者数がここ9年ほど、毎年3万人余りいます。

心が自分の味方なら、自分が挫折しても、立ち上がることに協力しようとするはずですが、立ち上がろうとしても、心は「そんなことをしてもうまくいくわけはない」とか「何をしてもムダ」とか、立ち上がるのを妨害するようなことを言ってきます。自殺を勧めるのは、心は自分の破壊者であり、敵であるということです。

(2) 大きな試合に臨んだスポーツ選手は、よく「勝敗を決めるのは自分との闘いだ」とか、「自分の中の  敵に勝った」とか「負けた」とか言います。たとえば、金メダルをとることを多くの人から期待される ほど、「その期待にこたえることができるだろうか、ひょっとして期待にこたえられないのではないか」という不安が心から表れてきます。
その不安に引きずり込まれるなら、試合に臨んだとき、過度に緊張するあがり状態となり、まったく実力を発揮できません。不安にうち勝つには精神エネルギーが必要になります。ですから、すぐれたスポーツの選手になるには、身体のトレーニングとともに、精神面のトレーニングも必要になります。
 このことはスポーツの世界だけのことではなく、日常生活も同様であり、われわれが否定的な心と付き合い、否定的な心をコントロールしていくためには精神エネルギーの助けが必要になります。

(3) 自分は否定的な心をコントロールすることができず、否定的な心に支配されてしまいます。その理由  は、自分という概念をつくったのは心ですから、自分からいえば心は親のようなものであり、自分は心の言うことに従ってしまうのです。それではどうすればよいのでしょうか。
第1は、「心は自分の味方ではない」ということを、これまでの体験を通して理解を深めることです。
第2は、心から否定が表われることに気づくことです。「気づく」とは「よい、悪い」のような、心のしばりのない、はっきりした、自由な意識が働くことです。そのあと、できるなら、プラナ呼吸をします。
第3は、心から表れる否定をなくそうとしないことです。心はいやな状態をなくそうとする働きもあるため、「そんなふうに思うまい、感じまい」とします。そのことによって、その否定に意識を向け、否定にこだわり、否定をより強めるようになります。否定はいやでも、否定があるままで、必要な行動を行います。否定をそのままに受け入れられるほど、否定はうすらいできます。
第4は、心の否定に気づいたとき、気づいた意識で否定的な心の動きを、景色を見ているように客観的に観察します。観察できるようになると、心から離れた意識を体験できます。眺めている意識と眺められている意識は違うことが分かります。眺めているのは心のしばりのない、自由な魂意識です。魂意識が働くことによって自然に心はコントロールされ、心は静まってきます。
第5は、心の否定があっても、魂から精神エネルギーが表れているつもりで「ありがとうございます」と、ゆっくりと、自分に聞こえる程度の声で何回も唱え続けます。そのことによって肯定的な状態が表れてきます。しかも、はずき虹映さんのいう「出したエネルギーが受け取るエネルギーになる」という法則により、そのように唱え続けることがプラスエネルギーを出し続けることになりますから、やがて何らかのプラスが還ってくることになるでしょう。

(4) 自分にはだれも味方がいない恐怖や孤独感をもちますが、最高の味方が自分のなかにいるのです。そ  れが自分自身、魂、真我、大いなる存在とつながる、内在の神です。自分自身が働くことによって心は役に立ち、必要な道具であるということが理解できるでしょう。


8月閉じこもりー長期閉じこもりの人もあきらめることはない

(1) 閉じこもりの人は、長くなると、10年、20年あるいはそれ以上になることもあります。それでは、 
もう立ち上がることはできないのでしょうか。生きているということはチャンスがあるということです。しかも、自分ではなかなか気づきにくいのですが、自分のなかに魂と呼ばれる、すばらしい宝物が宿っていますから、立ち上がれる可能性はずっとあり、あきらめないことです。
閉じこもりの人が出会っているのは、「苦難のなかで、どうすれば立ち上がり、乗り越えてゆくことができるか」という人類の普遍的で、根本的なテーマなのです。
(2) このテーマを果たした、歴史上の例が参考になると思います。
〔楠正成が湊川で足利尊氏の大軍を迎えようとした時、兵庫のある禅院に来て、和尚に尋ねた。
『生死交謝の時如何』(人が生死の岐路に立ったときは如何にしたらいいでしょうか。)
和尚が答えた。
『両頭ともに截断すれば、一剣天に倚って寒し』(お前の二元論を断切れ。一本の剣だけを静かに天に向けて立たせよ。)〕(鈴木大拙著、北川桃雄訳『禅と日本文化』岩波新書)。
両頭とは、「ああでもない、こうでもない」という、心の働きです。また、「こうすべきだと思っても、そんなことできるわけないと思う」という心の葛藤もあります。
楠正成は圧倒的な足利尊氏の大軍と戦って敗れることは覚悟していたものの、「このような戦いを戦う意味があるのか」という、いささかの心の迷いがあったかもしれません。
楠正成は剣によってその迷いの根を断ち切りました。「寒し」は「すさまじ」と読む人もいます。断ち切った剣は魂のエネルギーである光の剣です。
楠正成は合戦に敗れたとしても、光の剣をふるうことは天の理法に合致し、生死を越えた大生命を自覚できたのではないでしょうか。
(3) 閉じこもるということは、しんどさを避けるということがありますが、自分の人生を賭けた選択です。  
よい子ロボット的な生き方をやめて、自分らしく生きている実感をもてるような生き方を求めています。そのことは、これまでの潜在意識にある、生き方の癖を繰り返すことではありませんから、「どうしたらよいか」は考えても、分かることはできません。
閉じこもりのなかで出会うのは、否定的で相対二元的な心の働きに支配されるということです。堂々巡り的に否定的なことを考えつづけますし、ちょっとしたことをしようとしても、「頑張ってちゃんとやらねば」と考え、でも、「そんなにちゃんとできるだろうか」と不安になり、しんどくなってしまいます。
閉じこもりが長期間になるほど、「もう、立ち上がることはできるわけがない」と思い込んでしまいます。「きっとこうなる」と思い込めば、カルマの法則(原因・結果)により、そのとおりになります。  
これに対して、「きっと立ち上がれる」とプラス的に思い込むことはとても難しいのです。
しかも、これまでの生き方の癖が潜在意識の癖になっており、その癖のとおりに生きることで立ち上がることはできないのです。
(4) 閉じこもり状態から立ち上がるというには、しんどくなることを避けつづけることによって閉じこも
り状態になったのですから、同じ思考、行動のままですと、閉じこもり状態を持続することになります。
 自分の真の味方は心ではなく、自分自身です。自分自身のことを真我、魂、ハイヤーセルフ、内在の神などと呼んでいます。自分自身が自分の支えであり、そこからあらわれるエネルギーが魂のエネルギーであり、光の剣なのです。
まず、「自分にも真我が宿っているらしい」という仮定からはじめたらどうでしょうか。立ち上がることに役立つ行動を、できるところから積み重ねていきます。しかし、そのことを古い、否定的な心の癖が妨害します。その妨害を、光の剣をふるって「えい、やー」と切り開くつもりでやっていきます。
あまり悲壮感にとらわれたり、あまり必死になると、そのことで心もからだもカチカチになり、エネルギーが通るのを妨害します。
また、それがやれている状態を、光の剣をふるっているつもりでイメージ化します。少しでもゆったりと、繰り返しイメージ化し、イメージ化できないときはやめ、また繰り返しイメージ化していると、イメージはだんだんはっきりしてきます。
  この新しい行動を「チャレンジ」と呼んでいます。小さなプラスの行動でも、やれたときは、「よくやれたね」と自分に言ってあげます。光の剣をふるうつもりでやっていますと、実際に光の剣が働き出します。その積み重ねによって、しだいに状態がらせん状にアップしてきます。やがてその体験が根本的なテーマに答えることになってきます。
自分自身はもともと、すばらしい光の存在であったことを、われわれは出生のときに記憶を封印され、忘れているのです。

7月 私が体験した親子関係ー息子の死に直面して

  息子と私との関係
私は小さいころから、息子を叱ったことも、まして体罰をしたこともありません。息子は非のうちどころがない、とても繊細な、よい子でした。さみしがりやで、友だちを求め、友だちと遊ぶのが大好きでした。
私は息子のことをとても大事に思っていながら、息子を無条件に受け入れるという愛がまだ分かっていなかったのです。たとえば、本に興味を示すようになると、つぎつぎ本を買い与えてすぎて、本嫌いにさせました。
リュウマチ熱になり、主治医のすすめで、大阪市内から郊外に転居しました。小学校を決めるのは、息子を学校に連れて行き、息子の希望どおりにしたのです。
しかし、私がある教団の会員になったとき、妻と小6年生の息子を会員にしました。それは2人の人生に役に立つと思っており、そうすることが自分の責任と思い込んでいました。息子は、文句も言わず、毎月の例会にもずっと参加してくれましたが、中学校に入ってから、だんだん私と話さなくなりました。
それでも、息子が中学生になっても、まだ、プロレスゴッゴの相手はしていました。それがあるとき「いつもこちらが負けてばかりではいけないのではないか」と考え、息子を投げとばし、押さえ込み、「まいったか」と息子に言いました。私は合気道を習っていたのです。以後、二度とプロレスをしなくなりました。
息子は高校2年生のころ、例会に遅れそうになり、友人のバイクに乗せてもらって駅へ行こうとして、トラックと衝突事故を起しました。奇跡的に、頭にこぶができただけでいのち拾いしました。
やがて私はやっと、自分がずっと期待を通して息子を見てきたことに気づきました。ずっとそうだったから、期待をもっていたことも気づかなかったのです。この気づきによって、期待が消え、息子をあるがままに受け入れるようになったのです。
以来、息子とともにいることが喜びになりました。しだいと息子と話しができるようになりました。たまには、息子か相談してくれることもありました。期待が消えると、息子のプラスに目が向くのです。
期待を通して見ていると、期待に達しないマイナスばかりに目が向きます。そのことを口に出して言わなかったとしても、息子は私の潜在意識にある不満を感じとります。その不満で私のほうが息子に心を閉ざし、その結果として私に心を閉ざすようになったのです。
息子が私の期待に合わそうとするから、息子は私の期待による力支配に服従することになります。それでは、息子は自分なりに納得できる生き方ができません。だから、息子は心を閉ざすことによって力支配に抵抗し、よい子的な生き方を変えようとしたのです。
テレビゲーム、パチンコ、麻雀、撞球(ビリヤード)など、とても上手になりました。ギターもひいていました。親友の1人は暴走族のリーダーです。でも、学校では「全然問題のない生徒」と見られていました。のちに、「危っなかしく見えたかもしれないが、自分ではここまでやり、ここからはやらないと枠をきめていた。」「それに、けっこう友人らの相談相手になり、おとう父ちゃん(パパと言わなくなりました)の言っているようなことを言っていた」と話してくれたことがあります。
子どもは親の所有物ではありません。親とは別の、魂を宿した、1人の人間です。子どもを育てることによって親は愛を学び、精神的に成長します。やがて子どもが親離れするまで、天から預けられているのです。そんな当然のことがやっと理解できるようになったのです。

私が長年の遍歴をして、真我の実感を少しもてるようになり、やっとカウンセリングに戻る気になり、自宅でカウンセリング・センターをはじめました。経済面の協力をするということで、妻は喫茶店をはじめました。
息子は大学入試の受験勉強中でしたが、バーテンの仕事をして、自分から店を手伝ってくれたのです。お客さんの評判がよく、スキーにも連れて行ってもらったりしていました。また、パートの女の子に、妻が注意するよりも、あまり年齢の違わない息子が言ったほうが効果的でした。同じ一人っ子でも、私と違って、息子はとても人付き合いが上手だったと感じていました。こづかいを渡すゆとりがなく、給料を渡し、それでやりくりしていました。まともに勉強できない状態であり、国立大学に合格できなかったのですが、「浪人はいや」と、京都産業大学に入学しました。仕事のあいまに大学に行くという状態でしたが、大学でできた友人のところに泊めてもらったり、ノートを借りたりして、卒業しました。
息子も私も「人に支配されることはとてもいや」ということでは共通しています。だから、「人を支配しない」ということにつながるのでですが、私の場合は、親としては息子のことでは欲が出て、期待に合わせてくれることを求めてたのです。
親は子どもとの信頼関係づくりにはつまずくのが通常ではないでしょうか。その一つは、子どもを親の期待でしばる執着愛(愛ではない)です。もう一つは、親がほかの関心にしばられており(たとえば、自分のしんどさで精一杯)、子どもに関心を向けられず、放任的になることです。
問題は、親がそのつまづきに気づき、無条件に子どもを受け入れられるように生き方を変えられるかどうかが親にテーマであり、そのことによって生きる核になる愛を親は学ぶことができ、子どもはその愛を実感できることで、自分も愛をあらわせるようになります。

6月閉じこもりー働くことは家族に幸せをもたらせているか

  (1)家族は社会にある、最小の組織体です。独り暮らしは家族に含まれていません。親と同居している場合も、子どもは成人し、結婚によって親と独立した家族単位になります。子どもが生まれれば、子どももその家族の一員になります。
 会社の公式儀式へ働いている夫と妻が同伴して出席することはあるものの、夫の働いている職場で妻が発言することは認められていません。家族は働いている夫または父を下支えする存在として扱われており、社会を動かす組織体ではなく、社会のなかでは影の組織体として扱われています。
 しかし、われわれが子どもから大人へと成長していくなかで、その生き方は両親からの大きな影響を受けており、実際には、親子関係をタテ軸とした家族関係がとても重要なのです。
 社会は職場組織(とくに大企業と官僚組織)が社会の中核になっており、職場組織の価値観が社会の支配的な価値観になっています。つまりは、職場組織にとって都合のよい価値観に従うことを社会の人々は求められているのです。家族は社会の価値観の影響を受けつづけてきたのです。
 社会の人間関係は、愛の関係でないから、力関係であり、力関係は強者の側が弱者の側を力支配し、弱者に影響を与えます。ですから、強者の側が原因、弱者の側が結果になります。社会の価値観(子育て観)が原因になり、親の価値観が結果になります。そして、親の価値観(子育て観)が原因になり、親子関係がつくられます。
(2)社会と家族の力関係が個々の具体的なつながりとして明らかになるのは、働いている父とその妻および子どもとの関係です。
父親は、「働いて収入をえて、それで家族を養うことが父親の役割」と思い込んでいます。ですから、父親は家族のなかでは、親であり、夫であるという、とても大事な存在でありながら、夫婦、親子の信頼関係づくりは自分の役割以外のことと思っています。「自分は家族のために苦労して、頑張って働いているのだから、家族がそのことに感謝して当然だし、自分が家でその疲れ休めをしても、それを不満に思うほうがおかしい」と思っています。
もう一つは、「経済面・物質面を満たせば、幸せな家族をつくれる」という思い込みがあります。職場組織のカネ中心の価値観の影響を受けて、「カネがすべて欲求を満たすことができるから、カネが幸せになれるもとだ」という、生き方になっています。
カネはとても大事ですが、現実には仮面家族となり、表面的なつながりしかもてず、そこから子どもの閉じこもり、犯罪などの問題行動が生まれ、不幸な家族になっています。
経済面は家族の外面であって、愛という、血の通った、精神的なきずなづくりという、家族の内面が満たされることによって家族は幸せになるのです。
母親は夫に不満を溜めるとともに、社会の子育て観に影響されて、子どもを親の期待で支配しようとし、親子の信頼関係づくりに失敗します。
もっとも、父親で仕事も家族も大事にする人は、若い世代になるほど、じわっとふえてきています。
親子の信頼関係がつくられず、親子関係のつながりが希薄であったり、不信関係になっているために、子どもが成人して、家を離れて就職するようになると、実家に帰りたがらず、親子関係が切れてしまうことが多いのです。そのために、老齢になった親夫婦だけの生活になり、夫婦のどちらかが死亡すると、まったく孤独な生活になり、孤独死することになります。
親子の信頼関係のきずながつくられていれば、子どもは親を見捨てることはできないのです。
(3)職場組織が働いている人たちの家族関係を重視し、よい家族関係づくりを支援するなら、しだいにその効果があがります。家族関係がよくなってきた父親は、家族のなかでリラックスできるようになり、仕事意欲が高まり、生産効率が上がり、残業は不要になります。そのことによって職場組織は繁栄できるのです。
そのような職場組織がふえると、この精神的に荒廃化してきた社会が、人間を大事にする社会に変わり、沈没しつつあるわが国は再生の活力をもつようになります。


4月閉じこもりー良心にもとづいて生きるということ

  われわれ人間の生き方は、何をよりどころにして生きるかによって、根本的に違ってきます。ひとつは我欲にもとづく生き方であり、もうひとつは良心にもとづく生き方です。
戦時中は、魂のことを大和魂と呼び、忠君愛国を結びつけました。その聖戦が敗れたのですから、大和魂を否定し、魂を否定するようになりました。良心は魂のことですから、それは良心の否定でした。
 そのために、社会は我欲中心、カネ中心、モノ中心、力中心、外観中心となり、精神的に荒廃化し、将来に希望をもてない若い人が激増し、わが国は沈没しつつあります。
 われわれ人間は、我欲を満たすことで満足をする面と、人々が少しだけ幸せになるよう、自発的に役立つことを行うことを喜ぶ面の両面があります。これは人間には心の働きと、魂の働きの両面があるからです。しかも、心の働きは人間のもつ動物面であり、魂の働きによって、動物には見られない、「なぜ、生きるのか」の問題に出会うのです。いくら魂を否定しても、魂を宿しているのが人間なのです。
 魂が人間の真我であり、中身ですから、中身を否定すれば、動物面、心の面という外面だけになります。そこから外観中心になります。インチキでも、それらしく見せれば、信用され、社会で成功することができます。それが外観中心の生き方であり、そこから「偽装しても儲かればよい」という、偽装事件があきれるほど、多発しているのです。
 社会は人間の魂を否定しても、人間には魂が宿っていますから、少数ながら、良心にもとづいて生きる人々はずっとあらわれています。偽装事件でも、そんな人が内部告発し、組織を浄化しようとしましたが、組織はその人を組織の裏切り者として、組織から排除しました。それなのに告発する勇気は良心から生まれます。
 組織がおかしくても、組織に迎合することが要領のよい生き方とされています。ホンネで真実を話し合い、協力し合う関係づくりが、家族にとどまらず、人間関係では必要なことですが、そんなことはただの空論、理想論と社会はバカにしてきたのです。
 しかし、真実を語ることが求められるように、時代は変わりつつあります。
 世界的にも、アメリカ発の世界不況は、資本主義の崩壊を明らかにしました。資本主義は我欲中心の経済活動であり、その発展は投機中心の経済となり、投機バブルが破綻したのです。
 わが国では、お医者さんらによるe-クリニックの活動が注目されるようになってきました。低料金の会員制で、パソコンメールによって医師と患者が友だち関係となり、ホンネで病気が治癒する助言をします。その活動をお医者さんらが「良心にもとづいてやる」と明言しています。
 そのことで私も勇気づけられます。私も、下手なりに、良心にもとづいて活動してきたのです。


3月閉じこもりー「生きるということー13歳 骨肉腫で逝った少女のスピーチに学ぶ」

 閉じこもりの人は、難病でも前向きに生きている人の話や乙武さんおように、五体不満足でも前向きに生きている人の話などを聞くことをいやがります。
そういう話が教訓のように押しつけられ、「そんな状態の人でもそんなすばらしい生き方をしているのだから、それを見習ってもっとちゃんとしたらどうか」と言われるのではないかと警戒します。
 また、「体の状態が悪いと、だれでも分かるから、いたわってくれ、大事にしてくれる。しかし、自分は外目には体に問題がないのだから、しんどい状態なのに、その苦しみが分かってもらえない」と言います。
 ですから、今回のテーマは閉じこもりの人に反発されるでしょうか。
 その実現が困難であるとしても、生きることの究極は無条件に喜び、楽しさ、感謝、愛に満たされて生きている状態です。この少女のスピーチはこのことを裏づけるものとなっており、私は感動しました。だから紹介し、いっしょにそこから学びたいと思いました。
 いずれわれわれが死ぬことは確実です。しかし、われわれはそのことをごまかしながら、毎日を何となく、どこかに不安を感じながら、生きているのではないでしょうか。それから逃げつづけることはできません。自分が重い病気になり、自分の死と直面するとき、あるいは、自分がもっとも大事と思っている人が重い病気で死ぬことに直面するとき、それでも、前を向いて生きようとするなら、自分が今、生きていること、あるいは、自分の大事な人と、今、ともに生きていることに目を向けるのです。
 猿橋瞳さんらは、大切な仲間とともに、〔心も体もボロボロになりながら、生き続けるために必死に闘って〕きたのです。
 そして、〔地位でも、名誉でも、お金でもなく、今、生きていることが本当に幸せである〕ことを知ったのです。〔たくさんの仲間が命をかけて教えてくれた大切なメッセージを、世界中の人々に伝えていくことを私の使命だ〕と思っているのです。
 その命は、社会の多くの人が感じているような、ばらばらの命でなく、たくさんの仲間たちとともに生きた命です。生きているそのことが無条件の幸せであり、喜びであると感じている命です。
 亡くなったものの、その言葉は、年齢を超え、生死を超えた、光の言葉です。しゅくぜんとえりを正す心境になります。
 猿橋瞳さんは永遠の命を生きています。すばらしい生き方を教えてくれた猿橋瞳さんに深く感謝します。


2月閉じこもりー社会は人間をモノ扱いすることで腐敗してきた

社会は職場中心社会、それも大企業中心社会になっています。大企業、自民党および公明党、高級官僚、巨大マスコミが利益癒着的支配勢力となり、この社会を支配してきました。したがって、大企業の価値観が職場社会の価値観になり、社会全体の支配的な価値観になりました。
すでに述べたように、敗戦後、わが国はそれぞれが生きるよりどころとする魂を切り捨てるようになりました。そのためにゆがんだ人間観をもつようになりました。
われわれ人間は自己中心的な我欲を追求する面と、人の役に立つことによって喜ぶ、愛他的な面との両面をもっています。物欲を追求する、闇を宿す心が支配的である物質面・経済面と,光である魂の働きである精神面の両面をもっているのです。
人間のもつ精神面(それこそが人間をして人間たらしめる中核)を切り捨てるなら、人間はモノ的な存在であり、磁石の電池が入っているときだけ動き、やがてもとのモノにかえっていきます。そこには、人間をひとりの人間として尊重することはなく、人間は我欲によって都合よく利用される道具になります。学校でも、モノ的な人間観しか教えてこなかったのです。
職場中心社会の人間観とはまさにそのようなものです。社会はモノ中心、カネ中心、力中心、外観中心になってきたのです。職場で働く人は、職場の価値観を受け入れ、職場の求めに従うことによって職場に適応してきました。職場組織の求めに従うことをよりどころにして生活するようになりました。
わが国が右肩上がりに経済的に繁栄しているころは、働けば収入もアップし、職場での地位も昇進しました。しかし、バブル崩壊後の10余年の長い不況期になると、大企業も倒産したり、リストラという大量解雇をしたり、終身雇用制と年功序列を維持できなくなってきました。その後の大企業の業績の好転は非正社員をふやすことで人件費を減らし、利益を増やそうとするもので、あがった利益は経営側を肥やしたものの、働いている人の給料はあがらないままでした。しかも、中小企業は好況といえないままでした。
そこにアメリカ発の世界大不況の影響をわが国の企業も受けるようになりました。わが国でダントツの好業績を一貫してつづけてきたトヨタが赤字に転落しました。異常な、アメリカの投機中心経済がついにゆきづまり、崩壊し出してきたのです。それは資本主義が極点にきて、崩壊し出したということです。
資本主義を支えてきたのは、我欲中心の、ゆがんだ人間観でした。それは我欲中心の生き方がゆきずまったということです。
わが国でも、業績が悪化すると、どんどん非正社員が解雇され、さらに正社員の解雇も見られるようになってきました。「明日住むところがない。収入の当てもない」という人を企業は容赦なく切り捨てるのです。そこにあらわになったのは、企業は人間を使い捨ての、従順な仕事ロボットとして利用してきたということです。
船井幸雄さんは「これからの企業は地の理でなく、天の理にもとづくことで繁栄する」と述べています。(『2009年資本主義大崩壊!』ダイヤモンド社)すでに新しい企業のなかには、仲間同士として人間を尊重するヨコ型組織の企業があらわれています。

人間が魂という光を宿す存在であることに目覚め、人間をひとりの人間として尊重する社会に変える必要に、この社会は否応なく迫られているのです。


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